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May 30, 2005

2005.05.30

女性性、母性を認める

sora日中の気温が高くて夏もすぐそこだなあ・・と思わせてくれます。

このブログも5月20日で1年になります。その前に「さるさる日記」で書いていた「いいこと日記」から通算すると2年になるのかあ・・と感慨深いものがあります。ブログは写真のアップや本の紹介が簡単で楽しんでいるのですが、過去の記事を一覧で見ることが出来なくてなんとなく不便に感じてしまうことも・・。過去の記事を含め少し整理できたらいいなあ・・と思っているところです。

なんだかやっと新しい自分になりつつある感じがします。上手く言えないけれどとにかく不安で心配でどうしようどうしよう、、と考えている自分から少しだけ脱却してきたかもしれない。最初は「こうだったらどうしよう」と不安に思っていたことが現実になって、現実を受け止めなければ過ごせないという切羽詰まった状況を受け入れられるようになったとも言えます。最近は本を買ってもあまり開く気がしなくて、新しい本との出会いも無い感じでだったけれど、買ったまま1ヶ月以上置いてあった江原啓之さんの新刊「いのちが危ない!」を読んでいて「この世の苦しみを一言でまとめると『失うことへの恐れである』」という箇所がありました。夫との生活を失うこと、これが私の苦しさの源だったかもしれません。

物質的価値観に支配されている世代(江原さんの言葉)の両親は、不安な気持ちをいつも手放すことが出来ず、娘の私にいつもそれを押し付けてきます。自分をも物質と見ているから、自分の物質的価値が低下してくると生きる意味を失い、地位や老化によって体が動かなくなると自分に価値がないと思っている・・。

このような両親に、良い学校、良い学歴、良い職業、世間的に認められる伴侶と結婚すること、などという価値観を植え付けられて育てられた私たち世代(昭和30年代をピークとしてその前後生まれ)は「主体性欠如世代」であり、親に認められるように愛されるために、と懸命に頑張るのだけれど心は孤独である世代だそうです。自分なりの価値観や判断力、主体性が欠如しているから大人になっても他者の基準によりかかって生きている。

「親に愛されたい」「親から認められたい」この気持ちが、ずっと私を支配していたのでした。子供は親に見捨てられたら生きて行けない。憎めない、嫌いになれるはずがない、いつも大好きで愛してもらいたい。このことに付いては、田口ランディさんのブログ「幼児虐待ということ」という記事にも書かれていました。幼児虐待のニュースが日常茶飯事で、聞くたびにやりきれない思いになります。少し前に40代の母親が小学生の子供を手にかけた、というニュースを聞いたとき、私は突然、母親の心情を想像して涙が流れてしまいました。子供を殺す苦しさ、彼女を追い詰めてきた気持ち。少し理解できてしまって。

私は「母親」になることをずっと心で拒否していました。親になっても、自分の親のようにはなりたくない。似るのは嫌だ。私が唯一知っている「母親」は感情的に子供に当たる人。父親も感情的な性格。もちろん親としての責任は十分過ぎるほどに果たしていたし、2人とも一生懸命すぎるぐらい子育てに熱中して、他人からは一生懸命な母親だったでしょう。「あんたたちの為に」が口癖だったから、私は親に認められる子供でいなければという気持ちでずっと過ごしてきました。

でも、認められようと頑張っても頑張っても、皮肉や冷たい言葉で、あしらわれることが多くて、傷ついてきました。母親は、自分の存在価値を子供に求めて、子供に見返りを求めている、そんな感じ。中学生ぐらいから女性性を否定される言葉も何度も投げられて(「男に手篭めにされる」「子供が出来ちゃったら早く言いなさい、早く医者に行かないとどんどん育ってしまうんだから」など)傷つけられた言葉を、やっと客観的に見つめられるようになって来たのは、小さい時から女性的だった私に対する嫉妬もあったのかな、とか母の気持ちを理解し始めたから。(妹は言われていなかったらしいので)高校生ぐらいでおしゃれすると「男の気を引こうとするなんて、頭がおかしい」とか言われてたし。

どんな事を言われても母のことは嫌いになれなかった。母のような母親には絶対になりたくないと思っていたし「母性的だね」とか「お母さんみたい」とか言う言葉は、私にとって「褒め言葉」ではなくて、嫌な気持ちにさせる言葉でした。「本当の母性」というものがわからなかった。

最近「母親に似ている」嫌な部分、は本当の私ではない。やっと母は母、私は私、という気持ちになったり、母親を理解出来たりしてきたら、されたこと、かけられた言葉は憎んでも、母親そのものは1人の人間なのだから、母親なりに辛くて悩んで答えの無い子育てのストレスをぶつけてきたのかな・・と思えるようになってきました。こう思えるまで、沢山泣いて考えて、辛かったけれど、でも夫との関係を見直す中でも、必要なことでした。

女性性を否定されてきたから、私の中に女性を見る夫を、馬鹿にして軽蔑してきました。スピリチュアル的に見ても、とても大切と言えるsexが汚くて大嫌いで、自分とは無縁の物として生きていたかった。でも、夫にはそれが理解できなかった。そして確かに私は夫を、軽く見てバカにもしていました。

沢山沢山本を読んで、自分の経験に照らし合わせて、信頼出来る何人かのヒーラーの方から客観的なアドバイスを受けながら、やっと私は今、生まれながらに持っている女性性を肯定的に見つめ、そして私に「女性」を求めてくる夫のことも肯定できるようになってきました。

夫を失うんじゃないかという不安、夫を信じられないゆえに見つけてしまった彼が秘密にしている事を突きつけて、感情的にぶちまけてしまいたいという欲求を、なんとか抑え、全体を見れば良い流れに乗っていることを信じなくては、という気持ちになれてきました。本当は知ってしまったことに胸がグサグサに切り裂かれる感覚になるほどに傷ついているけれど、それを「嫉妬」や「皮肉」「なげやりな言葉」に包んでぶつけたい気持ちも、なんとか抑えてやり過ごしています。「皮肉」や「嫉妬」の言葉は、私が母からずっと受けてきたことで、私も日常的に使っていたのですが。

そう、1番大切なこと「こうなってしまったらどうしよう」と想像すると現実になってしまう。こう言うことってやっぱりあるのです。不安なこと嫌なことは想像しない。そして、もし起きてしまった嫌なことからは、「自分の本性をあからさまに知って、磨かなくてはならない部分を直視させられ、成長のきかっけをつかめる」(江原啓之「いのちが危ない」P26)のです。

この江原さんの本に「幸せの種子」という言葉があったので、その部分を引用します。「逆に言うと、苦難を乗り越えなければたましいは成長できません。成長する喜びや幸せが得られません。ということは、苦難は幸せという花の種子なのです。それが理解できたとき、私たちには『苦難への感謝』が沸くのです。」(同 P41)

母の言葉、父の態度、夫の行動、そして自分自身も行き過ぎた夫を軽く見た態度、、すべて理由があり、すべて私自身が、当事者皆が、何かに気づき成長していくための物だと思えば、辛い辛い苦しいどうにかしたい、という気持ちも、少し癒されて行く気がします。

<6/2追記>
福島さんのブログ「ナチュラルにつれづれ」の記事「母親のコントロール」は、大変興味深い内容になっていますので是非ご覧になって下さい。

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